mogmeeの日記

流れ流れて〜東京〜静岡〜兵庫〜群馬〜北海道

二人目不妊と夫の鬱①

前回からだいぶ日にちが経ってしまった。

とりあえず徒然と思い出すままに書いてみよ。

 

神戸での生活が始まり、幼稚園生活にも慣れてくると、一人で過ごす時間ができました。

自由を手に入れました。子どもを送り出してから、お迎えの時間までは、一人の時間。家事して、買い物して、あっという間でもあるけれど、自分の好きなように過ごせます。

車や電車で出かけたり、自由時間がグッと増えました。

とはいえ、仕事を始める程の余裕はありませんでした。

息子は登園を嫌がる日もあったし、転勤族ができる仕事は限られているだろうし、夫も無理してまで働く必要もないと言ってくれていたので、甘えていました。

 

そして悩みもありました。息子が3歳になる頃から、二人目を考えるようになりましたが、なかなか授かることができませんでした。

二人目不妊です。

静岡で一度婦人科に通いました。その時の先生に、ろくに検査もせず、薬を飲めばすぐできるよ、という説明の仕方をされたことがショックでした。

え、私、薬を飲むほどなの??というショックと、検査もせずに薬を飲む事を勧めてくる医師に不信感を抱き、通院をやめました。

自分でできる事から始めよう、と。ビールをやめてみたり、ストレッチしてみたり。

周りもどんどん二人目を妊娠していくし、うらやましい気持ちと、焦りもありました。

あれ…?なんでできないんだろう?

悩みはじめますが、神戸への引っ越しが決まります。

 

環境が変わるとできるというし、神戸に行ったらまた頑張ろう!と思っていました。

なので、自由時間は妊活を頑張ろうと思っていました。

 

しかし、息子の登園拒否や病気に加えて、主人も慣れない職場環境に鬱症状が出始めます。

二人目どころではない!と言った状況となってしまいました。

 

考えすぎる私の脳はこの頃からフル稼働です。

 

つづく。

 

神戸での思い出②

息子も無事退院し、幼稚園生活が再スタート。相変わらず幼稚園が苦手な息子でしたが、夏休みまでは、と泣いても抱えて連れて行く日々でした。

朝の騒動は嘘のように、お迎えの後はそのまま近所の公園で遊ぶことが多く、マンションの同級生に加えて、公園に寄る子どもたちの保護者の方々とも交流することができたので、息子のおかげで、引っ越しの寂しさは次第になくなって行きました。

初めて子どもを幼稚園に入れるというドキドキは、自分だけではないのだなと。

どこに行っても、子を思う親がいるのだなと。

当たり前だけど、心細さが薄れました。

神戸出身の方は少なく、福岡、長崎、島根、鳥取、山口、愛媛、京都、大阪、奈良、西日本の様々な出身地の方が多くいました。そして、少数ですがやはり関東から転勤で来ている方もいて、関西だからといってアウェイを感じることは全くありませんでした。

子どもを通じてですが、いろんな人と知り合えたことはとてもいい思い出です。

 

大学時代の友達や先輩が、旅行や帰省ついでに遊びに来てくれたり、静岡時代に大阪へ引っ越して行ったママ友と再会できたり、静岡住みで、実家が関西のママ友と会ったり、旦那さんの実家が大阪の友人が来てくれたり、とにかく不思議と人と会う機会も多く、寂しくなかったなぁ。むしろこれまでの出会いが結びついていて、転勤族も悪くないかも、なんて思ってました。

この頃は夫は神戸の本社勤務だったので、次の転勤が大阪だったりした場合は、10年近く関西で過ごすことになるのかなーなんてぼんやり考えたり。

とにかく息子が幼稚園に慣れて、日々楽しく過ごせることがまずは一番の願いでした。

 

 

川崎病と入院生活

引っ越して半年後、息子が川崎病で入院することになりました。

発熱から5日目なので、すぐに治療を始めた方がいいととのことで、書類にサインし、点滴治療が始まりました。

病院に着いた頃は発疹以外の症状はあまり出ていなかったけれど、次第に目や舌が赤くなっていきました。熱が高いので元気がなく、治療を初めてからもなかなか熱が下がらず、むくみも出てきて、不安でした。

大部屋だったので、気も使うし、元々偏食で、食事はほとんど食べないし、付き添いの親の食事は出ないので、自分で用意しなければならないし(お金を払って用意してもらうことはできたけれど、たしか利用方法が不便だったのでやめました)、トイレも点滴を抱えてついていかなければならないし、病気そのもの以外にもストレスはありました。

が、不思議と慣れてくるもので、夫が来てくれている間に買い物に出たり、洗濯機も使ってみたり、熱が下がってからはシャワー室も使ったりもして、2、3日熱がすっきりしない状況は続いていましたが、次第に落ち着いて元気になりました。後半の1週間は念のための入院ということで、元気になってからの方が早く帰りたくて1日が長く感じました。

息子が寝てからAmazonプライムでドラマを観たりして、なんとか乗り切りました。

 

入院してすぐは、どうしてこんな事になったのか、偏食だからと諦めて色々食べさせなかった自分のせいなのか、こんな時頼れる人は夫しかいないし、なんで、どうして、と、悲しくなって一回だけ泣きました。

そんな中、夫の両親がお見舞いに来てくれたり、幼稚園の先生も来てくれたり、幼稚園で知り合ったばかりのお母さん方が、最近見ないからと連絡をくれたり、お見舞いに来てくれようとしたり、(院内感染の恐れがあるので子連れでのお見舞いはできなかったのでお断りしましたが、後日自宅のポストにお見舞いメッセージを届けてくれてました。。今思い返してもかなり素敵な方だったなぁ)

私と息子の人生の中で大変な瞬間ではあったけれども、嬉しいと思えることもありました。

 

ただ、この川崎病、治療後も厄介な病で、5年間は術後経過を診ていかなければなりません。

そのため引っ越す度に紹介状を書いてもらい、治療した病院ではないところで、検査を受けなければならないのです。

あくまで我が家の場合ですが、、神戸→高崎→現在札幌にて最後の検診を行わなければなりません。小学校入学時にも主治医のサインを提出しなければならなかったし、主治医って治療した先生じゃないのに。。とか、もう、とにかく転勤、引っ越しがなければしない苦労をこんなところでもしているのですよ!

 

川崎病 息子3歳の夏

引っ越してから約半年、ようやく園生活に慣れてきた頃、子どもが高熱を出しました。

いつもなら1〜2日で下がる熱がなかなか下がらず、解熱剤も効かない。3日目も高熱が下がる様子がなかったので、4日目の朝着替えをさせようと服を脱がせると全身に発疹が。子どもは熱があっても割と元気があったりするれど、この時はだいぶぐったりしていました。

小児科を受診すると、プール熱かそうでなければ川崎病の疑いがある、とのことで、プール熱の検査はその場でできましたが陰性。そのまま紹介状を渡され、大きな総合病院に行くよう指示される。看護師さんにお母さん、まずは落ち着いて聞いてねって言われて、病院の道を説明されたのを覚えています。顔が相当強張っていたんだと思う。

川崎病の症状として、目、舌、手が真っ赤になるのだけれど、この時はあまりその症状は強く出ていなかったので、総合病院についてからも検査するまでははっきり断定されませんでした。

この日はたまたま土曜日で、夫も一緒に小児科へ行ってくれていたので、そのまま車を走らせ、総合病院へ。

紹介状はあっても診察までの待ち時間が長く、ぐったりした息子が本当にかわいそうでした。そして、検査の為、一人別室へ連れていかれ、採血の為にベットに縛られる。お母さんは見ない方がいいと言わんばかりに部屋のドアを閉められました。息子の泣き叫ぶ声が廊下まで響き渡り、こちらまで泣きそうになりました。

どうか陰性でありますように・・・。

 

が、結果は川崎病

熱が出始めてからの日数を考えるとすぐにでも治療を開始した方がいいとのことで、色々な書類に一気にサインをさせられて、そのまま入院することになりました。もちろん母子共に。

この時は夫がいてくれて本当によかった。

息子は次第に目や舌が真っ赤に。

入院に必要なものを夫と交代で取りに行き、息子と二人、二週間の入院生活が始まりました。

 

 

 

 

 

私の子育てとは・・・

実家から離れ、息子と二人の毎日。

子育てに関する助言者は、実母と、その土地で知り合ったママ友

実母と、息子は一緒に暮らしたことはないし、

ママ友の方が息子の事をよく知っていてくれる。

そんな環境

夫は息子が赤ちゃんの頃はよく子育てを手伝ってくれたが

息子が成長するにつれて、あまり手伝ってくれなくなった

息子自身が自分でできることが増えたのもあるけど、

自分を子どもに合わせることをしない人のようだ

仕事も年々責任が増え、忙しくなり

子育ては私に任せた、という感じ

仕事をしてない私が家のことや子どもの事をするのは当たり前

決して口には出さないがそう感じる

 

子どもが意思を持ち、親の言う通りには行かなくなることが面白くないようだ

支配欲が強いのか

 

息子が小学二年生になったが、学校が苦手で苦労している

幼稚園の頃からずっとだ

 

ここにきて、親や夫から私の子育てが悪いと言わんばかりの酷評を浴びる。

悔しかった

誰も私の頑張りを見たわけではないのに、と思う。

 

私も他人の子育てや頑張りを見たわけではないのだから

自分だけ辛いなんて、言ってはいけないと、母から言われ、悔しかった。

 

そう言われると、自分の子育てに自信がなくなる。。。わけではないな

自分にはこのやり方しかできないし、誰よりも息子をそばで見てきたと自信を持って言える。

それだけは確かに言える。

 

じゃあ悔しがるのはやめて、自信持ってそのやり方で進むしかない。

子どもは支配できない

笑顔で過ごす毎日が一番

 

甘えと甘やかしと、難しいけど、悩んだ分間違ってもいいから、自分で信じた答えややり方に自信持ってやっていこう。

 

息子を信じてやっていこう。

 

 

 

神戸での思い出①幼稚園と川崎病

神戸へ引っ越し、子どもが入園を迎えることになりました。

親子共々初めての土地で初めての園生活が始まりました。

通っていた幼稚園は、保護者の懇親会が学期に一度あり、同じマンションに子どもの同級生が二人いたこともあって、すぐに知り合いができました。幼稚園側の配慮なのか、みんな同じクラスで心強かったです。

神戸が昔からの地元だという保護者が意外にも少なく、驚いたのを覚えています。

また、認定こども園だったので、仕事をしている保護者も多く、役員はできなければ仕方ないという雰囲気でした。また妹や弟が小さければ断ることもできました。

在園中に一度でも役員をすれば、その後の役員決めには参加しなくてもよかったので、積極的に参加する保護者も多くいました。

 

役員決めや、幼稚園のあれこれ、初めてのことで不安もありましたが、この時はすぐに知り合いもできて、色々と聞いたりもできたので、引っ越しの寂しさはなくなりました。

ランチや、自宅に誘ってくれる方もいて、予想外に楽しい経験がたくさんできました。

 

ただ、子どもが幼稚園生活になかなか慣れず、泣きじゃくる中必死に連れて行く毎日でした。幼稚園に入る前から遊んでいたお友達が一人でもいれば違ったのかな、なんて思うこともありました。引っ越しを経験してもしなくても、幼稚園にすぐ慣れる子もいれば、なかなか慣れない子もいます。我が子は後者でした。

 

そして入園してもうすぐ3ヶ月、ようやく少しずつ慣れてきたかな、というところで、子どもが高熱を出し、休みます。

なかなか熱が下がらず、病院へ再診へ行くと、川崎病かもしれないので、このまま大きな病院に行って検査をするようにと、紹介状を渡され、そのまま入院することになりました。

 

自分の人生で、入院を経験することになるなんて思いもよりませんでした。

 

 

神戸での生活2

神戸では灘区に住んでいました。

JR六甲道駅まで徒歩約15分の割と閑静な住宅街にある賃貸マンション。

震災の後建てられたマンションでした。

震災前からあるタワマンも結構ありました。

駅は建て直されていて、どの駅も綺麗でした。

阪急、阪神電鉄とJR。この3路線があって、どの路線でも三宮、大阪へと行くことができます。

また路線バスも便利でした。

住んだ場所がバス停が近く、バスを利用して王子動物園新神戸、三宮へ行くこともありました。

静岡では車で移動することが多かったので、電車やバスを利用することが久しぶりでした。

これだけ便利なので、車を持っていない人も多く、自転車ママが多かったし、ちょっとした移動には自転車の方が便利そうでした。

駐車場代も高く、マンションの敷地内ですが屋根なしで、静岡の約3倍の金額を払っていました。

自転車を持っていないので、買い出しには変わらず車で出かけていました。たくさん買えるし、子連れだと車はやはり便利です。

夫も運転が好きなので、電車で出かけることもできましたが、週末は車でよく出かけていました。

神戸のウミエ周辺によく行っていました。

週末はとにかく出かける。まずはそれが楽しみでした。